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神奈川県在住。透明水彩で、風景と花を中心に描き続けています。 ↓のリンクから、サイト「ぼくの水絵」もご覧ください。

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八重椿

2015.03.21 13:53|

  130328 F3(VIFART)

 ネットを通じて多くの人の水彩画を見ることができる。ワタシも、改めていうのもおかしいほど毎日のように楽しんでいる。無論その画風もプロアマを問わず様々だ。時には、皆さんどんなことを考えながら描いているのかなと思ったりすることがある。

描きたいように描く(110901)
  
 「描きたいように描く」とは、絵を描いている周りであれこれ小うるさいギャラリーに、業を煮やした画家がいうセリフとして有名だ。同様に「見たとおりに描く」ということもある。どちらも開き直った自己主張に思えるが、相当に端折った言い方でもあるようだ。

 ワタシ自身だって、ふだん見たとおり描きたいように描いているつもりでいる。しかし本当にそうなのかと自問自答してみると、これがなかなかそうでもなさそうだ。描きたいように描いているつもりが、実はそのようにしか描けないでいるのではないか、という疑問が湧いてくる。他人の絵を見て、こんなふうには描きたくないと思ったりすることもあるが、それもただ自分にはそう描けないということの裏返しだったりして……。

 「描きたいように描く」とはどういうことなのか。木一本描くにしても、描き方はいろいろある。だが、見たとおり描きたいように描くとは、単に技能だけのことだけでなく、絵というものをどう考えるかという、下手をすると不毛になりかねない問いにまで発展する恐れがあるから厄介だ。しかもそこに、自分の好みや資質のようなものまで絡んでくるから、コトはますます複雑になってしまう。

 いくら理屈ばかりこねても満足なことにはならない。それに、曲がりなりにも一応の目安をつけるところまで考えるとなると簡単にはいかない。

 ところで、「後期印象派」と括られる画家たち、例えばセザンヌやルノワールなどには、感覚世界を超えた別な美の秩序探求があった。「モネは一つの眼にすぎない」と断じたセザンヌに、次のような言葉があるそうだ。

 「絵画には、ふたつのものが必要だ。つまり眼と頭脳である。この両者は、おたがいに助け合わなければならない。その両者の相互的発展のために、画家として努めなければならない。すなわち、眼は自然に対するヴィジョンによって、頭脳は表現手段の基礎となる組織された感覚の論理によって、それをしなければならないのである」(山階秀爾『近代絵画史』)


 セザンヌが絵画にとって大切だという「眼と頭脳」がどんな意味内容をもつのかよくわからないが、「見たとおり描きたいように描く」希求と深い関わりがあるにちがいない。それは自分流に置き換えれば、頭はともかく「眼と手が大事」ということになるだろうか。自分が何に満足するかということが、結局「描きたいように描く」ことの尺度なのか。どうもそうは思えない。

 描きたいように描くために、絶えず継続する眼と手の習練が必要なのだろう。しかし、こう描きたいのに思うように描けないなどいう不満足な事態が続くことだってありえる。だとすると、話は、あのシジフォスの神話、不断に続く不満の繰り返しのようなことになる。描きたいように描くのも容易ではない。

 構成を重んじたセザンヌらしい言葉だが、自分の好みが今後どんな方向をとるかは無論わからない。自分のとるべき方向を単純に取捨選択するわけにはいかない。あれこれ迷いながらも楽しむのがアマチュアの特権だ、と思って楽しくやることにする。楽描きを続ける。

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